La Becasse

Memory

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調理道具は選り好みせず大切に

職人は道具に凝るといいますが、私の場合には当てはまりません。最初に買ったプティナイフをつい最近まで使っていたくらいです。それをどうもスタッフが紛失したようで、その代わりに使い始めたのが、服部調理師専門学校で講習会があり、シャペルさんについて行ったとき、服部さんから生徒用のものを貰っていたものです。ですから、道具に関してはスタッフの方が上等のものを持っているくらい。肉捌きの包丁もカレダニョーのエピソードの時に使っていたものをいまだに使い続けています。
和包丁も使いますが、フランスで買った関のブランド「ミソノ刃物」のものを長く使っていて、シャペルさんが試作する時に「あの包丁はないか」と探しに来ていました。「ラ ベカス」をオープンした後、京都の「有次」に柳刃を買いに行ったのですが、たまたま知り合いの和食の店主、幸村さんも来ていて、お知合いならということで少しまけてもらって1万円くらいのもの。“平常一品”という銘が入ったものを買いました。その当時スタッフに中国人がいたので、意味を確認したら「毎日使う」と訳してくれました。字から想像できる通りの意味でした。まあ、それくらい普通の道具しか使いません。
ロブションさんは調理環境を整え、スタッフもしっかり揃えていましたが、シャペルさんは私から包丁を借りるくらい神経質にならない面もありました。「ロブションはストラディバリウスで演奏するが、私は自分のバリトンの喉で歌う」と言っていました。そもそも、グランシェフともなると、人を監督するのが仕事で、キッチンに自分の道具を持ち込まないのが普通なのですが。
道具で唯一選ぶ必要があると思うのは鍋。熱伝導が良く冷めにくいものが必要です。オープン以来ずっと銅鍋を使ってきましたが、今の場所に移ってから電磁調理器にしたので、鍋もステンレスに変えざるを得ませんでした。ようやく熱の伝わり方に慣れてきたところです。いまでも少量ですが銅鍋とストーヴ鍋を残しています。
トリュフのスライスを極薄のおぼろ昆布のように引いて褒められたことがありますが、このスライサーもフランス製のマンドリンではなく、道具屋筋で売っている本体プラスチック製の“ベンリナー”という代物です。これが本当に便利で助かっています。
圧力鍋が時間短縮できて便利という人が多いですが、じっくり時間を掛けて煮込んだ味には太刀打ちできないので、その美味しさを捨ててまで、あえて使おうとは思いません。電子レンジも置いてみましたが、結局使わず、物入れになってしまっています。真空調理機も持っていますが、素材の保存用にしか使っていません。エスプーマも出始めの時に貰いましたが、ちょっと試しただけで使わず終い。
ついでに言うと、「エルブジ」が始めた分子ガストロノミーはマジックのような面白さは感じますが、自分の料理とは無縁だと感じます。「エルブジ」出身の人のキッチンを見学する機会がありましたが、見知らぬ道具というか機械ばかりで、聞くとドイツ製の本来医療機器として使われているものだという説明でした。見学のメンバーの中にお医者さんがいましたが彼も首を捻っていました。
数学的、工学的に分析して絶対に美味しくなる法則を見出すことはできるでしょう。でも、私はそのような予定調和の世界を超えたものに惹かれます。料理の経験を経て生まれる閃きと、作り手、食べ手共に経験を積まなければ理解できない美味しさの領域というものがあると思っているのです。同じ材料、同じ調理法であってもスタッフが作るより私が作る方が美味しくなります。ある時、スタッフが私の手からは美味しくなる光線が出ていると言ったことがあります。それは経験の差というだけでなく、1回1回いかに感覚を研ぎ澄ましているかという差でしょう。その積み重ねが計算の世界を乗り越えるのだと信じています。
どうも新しい道具は私の創造の世界とは接点を持てないようです。どうやらシンプルな道具の世界でこそ自由に想像力を羽ばたかせられ、渋谷のフィルターを通すことができるようです。時代遅れと言われるかもしれませんが、素朴な調理法こそが本当に美味しい料理を作る道として見直される時が必ず来ると思います。
最近流行りの再構築の料理も同じように面白いと思うけれど、疑問もあります。たとえば親子丼のパーツを分解して、ご飯はせんべいに、鶏の身の部分は燻製に、卵はメレンゲにしてしまって元の姿をとどめないようにして、パーツの組み合わせから、「ああ、元は親子丼か」と納得するという仕掛けのある料理。想像を絶する変化を遂げるほど評価が得られるようですが、新しい味が元の親子丼を超えたのかどうかが怪しいのです。
私なら姿は親子丼のままで、新しい調理法でより美味しくなる方法を選びます。再構築という言葉にはフランスにいた80年代に出会っています。ファッションデザイナーのジャン=フランコ フェレが雑誌ヴォーグで語っていたのです。彼のデザインは比較的オーソドックスなのですが、古い形を新しい精神、新しい方法で再構築する、と言っていたのです。その言葉に感激して、それ以来、私の料理の考え方を支えてきたのです。
料理に時に今もてはやされているような再構築の奇抜さはあっていいものですが、それが方法論となって独り歩きすれば、ヌーベルキュイジーヌのときの画一化と同じことが起こるでしょう。再構築であればこそ、持って回った表現ではなく、美味しさにまっすぐに立ち向かわなければいけないと思っています。
料理は引き算でシンプルになれば美味しいというものでもありません。昔のフランス料理のようにゴテゴテと塗り重ねる料理は今では通用しないでしょうが、素材同士の掛け算も組み合わせながら上手く引き算してシンプルに。冗談でその掛け引きが大切と言っています。シンプルな中にもその核となるエキスには手間暇かける必要も出てきます。たとえばボキューズさんの“トリュフのスープ”に倣ったスープでは、手羽を煮込むこと6時間、軟骨を煮込むこと4時間。その労力により複合的な味わい、力強い厚みの説得力が出たのです。シンプルな料理であっても必要なところに手間暇かけて感動の味わいを創り出す、それが料理人に課せられた仕事だと思います。無駄な努力はする必要がありませんが、絶対に美味しくなるとわかっている手間は惜しまない。逆に、一番手間のかかるとされるコンソメスープを作るのに、卵白で澄ませるのではなく、最初から濁らせないで作るとか、少しでも手間を省く方法は追求すべきでしょう。
ということで、道具へのこだわりはありませんが、使いやすい状態を保つために大切に使うことは心がけています。ボールが少しへこむだけで使いにくくなりますから。
もし、美味しさへの近道につながる道具があるのなら、若い人がそれを選ぶのを妨げることはしません。

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