La Becasse

Memory

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順調だった修業時代

振り返ってみると、フランスでの約10年はほぼ思い通りに過ごせたように思います。基本的に仕事が好きだというのが、大きな要因でしょうが、高校生の3年間学校には内緒で居酒屋でバイト漬の生活を送ったせいで要領が分かるようになっていたのもあるでしょう。ホールの仕事だから調理に関してはまったくの素人だったのですが、手先が器用なのか、包丁さばきなども苦労することなく、すぐに身に付きました。
もっともボキューズさんのところでの最初の1年の無我夢中ぶりは師匠の印象にも残ったのでしょう。すぐに卒業させていろいろ体験させようとしてくれました。前に言ったように、唯一、最初に紹介してくれた「オテル ド クリヨン」では思うように仕事ができなかったのですが、それなりに得るものがなかったわけではないのです。大きなホテルですが日本のホテルとは違ってキッチンは一つだけで、レストランも宴会場もカフェもルームサーヴィスもすべてこなしてしまう変則的な体制が好きになれませんでした。勤務もシフト制で、どこからどこまでが誰の仕事なのかということが明確ではなくて、朝来てみたら昨日の人が仕込んでおくべき仕事ができていないなどの面倒なこともありました。そういう好きになれない部分が確かにあったのです。それでも仕事そのものが嫌になることはなかった。
そんな中で、パティスリーだけが独立していて、一時期パティスリーに回された時は楽しかったです。ワゴンに並べるフルーツタルト2台の盛り付けを任されたのですが、ボキューズさんのところでガルドマンジュを担当していた時、フルーツのカットも仕事の範疇だったのでフルーツの扱いには慣れていました。それでフルーツをきれいにカットし、組み合わせて格子柄になるようにデザインしてみたり、いろいろ楽しみながら仕事ができ、しかもパティシェのシェフから褒められたりした満足の行く場面もありました。
宴会用に大量のカナッペを作ったときはサードの人が責任者でした。彼は今では宴会調理専門の会社のシェフになっていて、私が独立した後、パリの宴会に出席すると必ず彼がいて、お互い「やあやあ」と挨拶し、最近もオペラ座を貸切っての宴会で「あの時はよく手伝ってくれたよなあ」と懐かしんでくれました。面白くない仕事でも嫌がらずに熱心にやっていると何かいい思い出につながるのではないですか。
量をこなすのは面白い仕事ではありません。だけどこれを身に着けると怖いものがなくなるということもあるでしょう。ボキューズ時代に700人のパーティーに一人20個のカナッペ、合計1万4千個をたった2人で2日がかりで作ったことが神経をタフにしたのではないでしょうか。「クリヨン」の後に「ムーランドムージャン」に行った時も、夏の観光客が押し寄せるときに、ともかく速さを求められるのですが、大変だとは思わなかった。その仕事ぶりを見たからこそ、同様に観光客でにぎわうスキー場のシェフが仕事に誘ってくれたのです。
ロブションさんの店では緊張のあまり胃に穴の開くような思いもしていますが、辛いだけでなく得られるものがあるからこそ耐えられました。どんな仕事の中にも自分にとって未知の情報や技術や、興味を持つべきところはいくらでもあるのです。興味の対象を探す能力に恵まれていたからこそ、辛いことを辛いと感じなかったのかもしれません。だからホームシックにも一度もかかっていません。日本のことを考えるより、目の前のフランスを知ることに熱中していたと言えるでしょう。

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