La Becasse

Memory

Memory

いよいよ最後の仕上げ

「ジャマン」を辞めることにし、「アラン・シャペル」に予約を入れ、食事の後でシャペルさんと面会したいと伝え、了解が得られました。何度か食べに行っていて、客としてシャペルさんと話したこともあり、顔は覚えられていました。当日会って、雇ってほしいと伝えると「お前は欲しいものを手に入れるタイプだな。いずれウチにくることになるだろうと思っていたよ」と言って受け入れてくれました。
「アラン・シャペル」のキッチンは階級制のようなものはなく、シェフ以外給料も含めて待遇はすべて同じでした。最初の1年はポワッソン(魚)担当。2年目からはヴィヤンド(肉)担当でした。各パート、シャペルさんの下のシェフ以外に3、4人という体制なのですが、誰が何をするかという取り決めがまったくないのです。完全に自由放任。積極的にやりたいスタッフが仕事を取るというシステムです。ロブションの決められた線路の上を脇目もふらずまっすぐ休まず進め、というのと正反対。「シャペル」のスタイルの方が伸びる力を持った人には適しているでしょうね。その代わり力をセーヴする人も出てくるし、ポジションに満足してそれっきりという人も出てきます。現にシャペルさんから信頼されていましたが、4年間ずっとガルドマンジュとして働いているという人がいたくらいです。望まなければ停滞、望めば思い通りに実力を伸ばせるという職場でした。
私はこの環境を嬉しく思い、働けるだけ働きました。
ここで働いた先輩日本人は、音羽和紀さん、上柿元勝さん、三國清三さんの3人。すでに神戸ポートピアホテルに「アラン・シャペル」を開業してもいました。日本びいきのようにも取れますが、シャペルさんは面接のときに「日本人の友達は少ない。君も気を付けろ」と言っていました。3人の先輩たちが働いた時代はどうも事情が違っていたようです。シャペルさんの定位置はキッチンとホールの両方が見える小部屋なのですが、先輩たちの時にはよほど気が乗らないとキッチンに入ってこなかったそうです。上機嫌でないとよく怒られ、とにかく怖い存在だったとか。
その点、私の時にはシャペルさんが柔和になっていて、とても親しく接してもらえました。
ある時、パコーさん夫妻が食べに来て、食後に店内のバーに誘われ、私は彼らと話し込んでいました。シャペルさんはすぐ隣で他の知り合いと話していたのですが、その用件が終わると私たちの所へ来て話に加わりました。やはりフランス人同士話が弾み、にぎやかな会話になったのでした。翌日の昼営業が始まったころになって、今気が付いたように、「ところでヨシ、なんでパコーを知っているんだ」と聞かれ、「ランブロワジーが移転するとき誘われていたんです。ほとんど決定していたのに、私はそれを断ってアラン・シャペルを選んだんです」「そうか、君は正解だ」といってご満悦でした。
またある時は、空港に向かうベンツで畑の中の農道を時速200㎞でぶっ飛ばしたことがあり、「どうだ、怖いか」と聞かれたのですが、こちらも少しスピード狂のところがあり「楽しい!」と答えた子弟の隔てを忘れさせるような瞬間もありました。
シャペルさんはレンジローバーに乗ったりもしていたから、オフロードなども得意な運転好きだと思って安心していたのです。店は国道沿いにあって車止めに植木鉢を並べたりしていたのですが、その植木鉢や門扉、店の壁などしょっちゅうぶつけていました。今思えば、あの時はたまたま無事でしたが、楽しんでいる場合ではなかったのかもしれませんね。
夏、あまり暑くて前髪だけ少し残して髪を短く切って出勤したら、「いい髪形だな。俺もしようかな」と冗談を言ってくれました。シャペルさん髪がないのでね。
シャペルさんの料理は「料理 ルセットを超えるもの」というタイトルの本で日本でも紹介されています。この本の原題は“La CUISIENE c’est beaucoup plus que des recettes”というもので、ボクゥ プリュスという言葉は超えるという邦題よりはるかに強いニュアンスですね。もっと激しく凌駕していくイメージ“これでもか”というような感じでしょう。
ボキューズさんたちヌーヴェルキュイジーヌの先頭を走っていた人たちにとって、ルセットといえばエスコフィエのことを指しています。古い固定したルセットから自由になったからこそ、ヌーヴェルであり、シャペルさんのほかにもトロワグロやロブションを含め多士済々一斉に個性を競い合っていたのですが、それ以後の世代になるとヌーヴェルキュイジーヌの名前の下に一くくりにされてしまう同じような料理を作ることになってしまいました。
シャペルさんの弟子として、私も“ボクゥ プリュス”と言いたいですね。シャペルさんは料理界のダ・ヴィンチと言われ、芸術性が高く評価されたのですが、その背景にある精神の自由さと激しさも忘れられません。
自由なのか大まかなのか(つねに繊細さを踏まえてはいましたが)分からない時もありましたけどね。
東京の「アピシウス」でシャペル&ロブションのイベントで一緒になったとき、帰ってきたらロブション風に2種類のソースで同心円を描けというのです。ロブションは茶色いソースにバターをモンテした白っぽいソースの組み合わせなのですが、バターが嫌でカタクリがいいと言うのです。バターの粘度が描くのにちょうどいいのですが、カタクリでは粘り過ぎてちゃんとした円にもならないし太さもバラバラです。それでもOKがでたし、1日で止めてしまうし、結局なにがしたかったのか分からない場面でした。
ロブションとの逸話はもう一つあって、東京の服部調理師専門学校で全国からシェフを集めた講習会に一緒に招かれた時、めずらしくロブションがルセットを変更したのです。普段年下なのでジョエルと親しく呼んでいるのに、「ムッシュ・ロブションでさえもルセットを変えた」とやじっていました。横で聞いていた石鍋裕さんもニヤニヤしていました。シャペルさんはロブションの完璧性を認めていたので、驚くと同時に面白かったのでしょうね。
ある時、お湯の中に卵液を細く垂らしてスパゲティを作れと言うのです。お湯では中華の卵スープのように簡単に散ってしまいます。濃いシロップに落として作るお菓子の卵素麺のイメージがあったのかもしれませんが。どうしても出来ないので、錦糸卵を作って持っていたら満足していました。鶏のヴェシー(膀胱)包みの盛り付けをしているときに見に来て、「良くないな」というので、何度見直しても、「どこもおかしいとこないけどな」と思い、仕方なく膀胱の上に載せていたニンジンの向きを90度回転させてもう一度見てもらうと「うん良くなった」と。芸術家の気まぐれですかね。
羅列したエピソードからも分かるように、いい部分も悪い部分もいっぱい見せてもらった濃密な3年間。作らせてもらった料理一つひとつに想い出はあるし、伝えたい話はキリがありません。結局、技術やルセットではなく、自分の持っている力をすべて出す精神のあり方を学んだように思います。
日本に帰ると決めた後、シャペルさんと親しいスイス人の料理記者がやってきていて「君、もうあがるんだってな」と聞かれ、「シェフになったらシャペルさんの真似はしません」と答えたら、「でもアランは君の体の中を通り抜けたよ」と諭されました。印象的なこの言葉の通り、たしかに忘れようのない体験をしたのでした。

シェフ渋谷の想い出話一覧へ